読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

晴れときどき薔薇の雨

カトリック信者による信仰生活体験日記

「神は私を愛しています」

信仰生活
私は子供の頃から卑屈だった。
私は醜く、人並みでなく、みっともない歪んだ存在だと思っていた。
これは謙遜や謙虚と違う。
反面として、私はいつも過剰な自意識を持て余していた。真に謙遜な者が、こんな不安定な感情に自ら振り回されて困惑するはずがない。
私は私をこの世に受け入れられる資格のない醜悪なでき損ないと思っていたけど、同時に愛されたくてならなかった。
卑屈だと人のことも愛せない。依存的な愛着や、過度に自己投影的な愛情を抱いたり、愛することさえ下手だ。その愛は、相手を幸福にすることがない。
そんな普通の人が当たり前に出来ている(ように見えること)が、私には出来ない。それがまた苦しい。
一方で、自らを抑圧する私の他人への軽蔑も憎悪も激しかった。自分に価値を見出だせないことで愛せない者は、価値を見出だせない他人の事も愛せない。
愛は、条件によって与えられるものではない。価値があるから与えられるものでもない。そこにいる存在が、いとおしい。
神は、私たちが何者であり、どんな悪い面を持った存在でも受け入れて愛想とする。キリストが自らを裏切り、偽りの接吻を捧げたユダをなお「友よ」と呼ぶように。
それが少しずつ身に付いたとき、私は人の愛しかたが少しわかって来たように思う。
また、「信じること」も、力だ。
「神は私を愛している。何事も神が私をよくするために与えて下さったこと。苦しみも悲しみも」。
それを強く信じられたら、人は折れない。
この苦しみの中に恩寵があるなら、私は卑屈になったり絶望することはない。私がこの苦しみから何かを見つけ出せるよう、もっと良くなれるように神が与えて下さったのだ。
そう信じられれば、苦しみに心を汚され、健やかな私自身を損なうことはないのだ。
少しわかって、また神に感謝。
神はいつも私を見守り、いくつものギフトを下さる。

モラハラ 002

カトリック全般
モラハラ問題にはこだわっていきたい。
これで人生につまずいてる女性、いーっぱいいると思う。特殊なタイプより、普通の真面目な聞き分けの良い人が、モラハラに掴まるケースが多いと聞く。
日本で暮らしてると、女の子は「協調性」「周囲に合わせる」「和を保つ」を徹底的に仕込まれるから、モラハラな人が「きみの行動、皆の迷惑になってるよ」とか振ってくると光の速さで毒牙にかかる。それが言い掛かりでも難癖でも「空気読めないな」なんて言われると、もうダメなんだよ我々は。「え? 私の何がいけなかった?」と気にし出したら、落ちたも同然です。
その後、二度と「きみはちゃんとしてる」と認められることのない、ダメだし地獄の始まりだもの。
モラハラの人は、どうでもいいような些細な落ち度を見つけ出しては、それを大罪のように言い募って相手を責める。「きみは非常識だ」等と。
「そんな出来損ないのきみに、この俺が貴重な時間を割いて親切にしてやってる」
「なのに感謝が足りない」
「頭が高い」
「俺の思いやりと気遣いが全くわかっていない」
「なんてどうしようもない屑だ」
「自分でそう思わない? 恥ずかしくないのか。生きてて嬉しい?」
最早定型文ですね。
これを神のお言葉と比べてみましょう。
神は偉い方ですが、こんなこと(↑)仰いますかね。あり得ないですよね。
時間を割いたり、罪人に親切にして下さったり、行為の部分はキリストと似ていますが、もう根本が全く違う。
まるで愛の行為でない。
カトリック信仰があったら、これらの言葉を浴びせかけられ、生まれて来なければ良かったでき損ないと言われる事に、神からの祝福とのあまりの落差に「これはおかしい」と気付けるのではないかと思う。
「私は罪人だが。ゆるしのないあなたにも愛は存在しない。あなたには、人が付いて従うべき聖性はない。あなたが私をどう言おうと、神は私を愛して下さっているし、あなたも神から愛されている。お互いに神の大切な存在同士、互いに尊重し合いましょう」

そう言って、その人に巣食う悪霊を退けていけるのでは。
広告を非表示にする

福音かな

信仰生活
無闇に思い悩む事があって、ちょっと気分落ちてた。寝不足で体力もなかったし。
疲れてるから深い溜め息が出る。やだな、と思いつつ、体の疲れに逆らえない。
そんなとき、仕事場の前の席の人が偶然「溜め息は付かない主義です。溜め息は後ろ向きだから」と会話中に言ってた。
「深い溜め息はストレス解消になるんですよー」と心の中で思ったけど、言わなかった。
このことについては「明日の事を思い悩むから、気持ちが重いんだ」って思ったし。
全くの偶然だけど、こういうことを「祝福かな」と考えていいように受け止めてる。聖書の言葉を知っていくと、色んな事の中から、聖霊の働きを見付けていけるようになる気がする。
そんなのが私の日々の、ささやかな信仰生活なのです。
広告を非表示にする

聖ヨセフ

聖人のこと

ヨセフ様も思い出深い聖人の一人。

年末にミサ説教で拝した聖家族のお話が好きだった。

聖霊によってイエスを宿したおとめマリア。そして、マリアの夫であり、イエスのこの世の父となったヨセフ。

二人は聖霊のお告げを信じ、力を合わせてイエス様を守り育てた。

信仰によって、この家族はお互いを疑うことなく、聖霊の働きを信じ、力を尽くして支え合った。

私この話を伺って、聖ヨセフとは義父や養父の守護聖人なんじゃないかと勝手に思ってました。

聖霊の働き」に全てを捧げた崇高な生き方も素晴らしいです。

でも、もう少し身近かつ普遍的な感覚として「妻の連れ子を大事にする人」にも言えることじゃないか、と。

奥さんの連れ子は、奥さんが正当な理由で設けた子供。血縁ではないけど、愛すべき家族である。

でも、どうも男の人はこの点において悩みが深いらしい。

連れ子ならともかく、自分の妻が他人の子を妊娠中に結婚するというのはすさまじい障壁だ。

しかも、マリアへの愛情で超越したというより、ヨセフの場合、信仰の強さによってマリアとイエスを受け入れてこの上なく愛したのでしょう。

でも世の中の本質ってそうなのかも。

マリア(妻)への愛着と、その妊娠中の子供を大切にして育てることは全く別という。

そういうことを考えさせてくれたエピソードをお持ちの聖人です。

で、ちょっと個人的な思い出が。

続きを読む
広告を非表示にする

洗礼のススメ?

洗礼準備

聖堂もミサも大好き。世俗から離れ、心の洗われるあのミサの感じがとても好き。

だから、ミサは人にお勧めしたい。とはいえ、相手がミサ参加が嫌だったり、反発を感じていたり、良く思っていない場合はそれ以上説得しようと思わない。

洗礼は……。

私は成人洗礼です。そして、洗礼は人生の中でもちょっと特殊な経験だと思う。特に日本では、それまでの文化圏をちょっと出て、新しい文化圏と交わるという「境界の向こう」を経験することになりますし。

洗礼までの経緯は、皆個々それぞれにあって、もし人の洗礼までの経緯を聞くことが出来たら、本当に多種多様であり「これが正しい」という正解がないと思う不思議な経験をするんじゃないでしょうか。「教会を訪問し、その年に最短距離で洗礼を受ける」が王道のようにも思えますが、その「最短距離」にすら個々人個別の展開がある。それだけ許容範囲が広いということだと思います。「道筋においてたった一つのこれ」を正解としない。

でも、自分の洗礼までの経緯を思い出すと泣いちゃう。

つらかったと思う。教会に出会って、洗礼を決心するまでが本当につらかった。

こんな思いをするかも知れないなら、誰にも同じつらさを味わってほしくない。だから、私は人に洗礼をすすめられない。「洗礼を授かりたい。その道行きで辛い事があってもいい」そういう決心を持つ人でなかったら、勧められない。

例え、そのつらさと一体の幸福があっても。私は確かに、頂いたつらさは幸福への導きだったと思う。つらさの中に祝福を感じた。何故こううまいこと、つらい思いが幸福に変わっていくのか、いつも不思議だった。

でも、それでも、こんな思いをするかも知れないなら、心配で心配で勧められない。

ちょっと不思議。

私は「宣教は信者の義務」というのを、結構早い段階で知ったのです。

「じゃあ信者になったら宣教しないと」とも思いました。でも、私にとって善いものでも、人にとって同じだろうか。そんな事も心配だった。それに、私も教会で多分人並みに嫌な思いもしているし。

こんな目に遭ったら、きっと教会が嫌になっちゃうよね、と思ったことも何度もあった。

それでも通い続けた私は、やっぱりちょっと変わってると思う。

根本的に、この宗教が好きなんだと思う。

他の人が同じとも思えない。だって、カトリックが好きな人って何があっても教会に通うし。どうしても行けなかったら泣いちゃうくらい教会を恋しく思うし。

それはやはり、この宗教と親和性の高いタイプの人だけのことなんじゃないかな、なんぞと、未熟な私は思ってしまうのです。

続きを読む
広告を非表示にする

モラハラ 001

カトリック全般

つい最近までその言葉さえ知らなかった。「モラハラ」。「モラル・ハラスメント」の略です。

いわゆる「精神的DV」とされますね。

このサイトの説明がわかりやすいと思いました。

こいぴた「モラハラ夫の特徴とその対策方法9つ」

http://za-sh.com/morahara-husband-4794.html

こういう人と関わり合う理由はなんでしょう。よく言われるのは「自己評価の低いから」。

自己評価が低いと、虐げられることを受け入れやすい。「私のような愚かな人間は虐げられて当たり前だ。愚かなんだから仕方ない」とか思う。あるいは、否定的なことを言われると、それが低い自己評価に対する対症療法だとか考えてしまうのだよね。自分の経験からするに、「お前は頭が悪い、人から尊敬されるところがない、価値がない。何故のうのうと生きているのか」といった酷い言動を「この人は本当の私をわかってる」と思ってみたり、「この人は私がこのダメな自分を脱却する方法を知っているのでは」と思ってみたり。

ほぼカルトワールドです。

多分モラハラと縁のない人には「そもそも何故そんなに自己評価が低いの?」と疑問に思われることでしょう。

私にも決定的な理由はわかりません。思い当たるのは、小学生くらいの頃から「自己犠牲」というものに異様に気が昂る性質だったこと。「身に覚えのない事まで自分の罪として背負う」とか。何によって培われた幻想なのか不明です。多分、聖書由来の自己犠牲精神をドラマチックに脚色した創作物を読んでそう思ったのでしょう。

子供のころから、辛い思いをする人が気の毒でならないところがありました。そんなの私が代わる。とか。

といっても、些細な事ばかりですけどもね。殴られそうな人の前に出て代わりに殴られて庇う、とかはありませんでした。そういう場面では、途端に人一倍の臆病者。

自分でも偽善的なやつだと自分のことを思ってましたし。嘘ばっか、勢いばっか。可哀想だと思いながら何もできないやつ、とか。

自分のことは嫌いだし、なのに「友達百人つくれ」とか学校は脅迫してくるし、仲良くなれない子はいらないよね、といつも思ってました。

で、私は今思ったわけです。

続きを読む
広告を非表示にする

「晴れときどき薔薇の雨」

日記

リジューの聖テレーズのことを好きな人には一目瞭然のこのブログタイトル。

聖テレーズは「私は天から薔薇の雨を降らせましょう」と信仰を語ったという伝説が残されています。

そこから頂きました。

「晴れの合間に更に薔薇の祝福が」という意味でもいいし、「晴れの合間に降り注ぐ憂鬱な雨は、見方を変えれば薔薇(祝福)である」でもいいです。なんでも。

信仰生活、日々そんなだったら嬉しいなあ、皆様の日々もそうでありますように、との願いも込めて。