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晴れときどき薔薇の雨

カトリック信者による信仰生活体験日記

洗礼名を考える

カトリックの洗礼に不可欠なもののひとつ。「洗礼名」。「霊名(れいめい)」とも。

洗礼名の選び方は様々あるようですが、私が洗礼名を選ぶ時に基準としたのは以下でした。

・信仰生活の模範としたい聖人。

・親近感を強く感じる聖人。

ここに世俗的な理由もプラスしておきましょう。

・親しみやすい名前。(日本語圏で聞きなれない音のある名前はやめたい)

・各言語でそれぞれ読み方の違う名前。(各言語の読み方が様々あると楽しい)

信仰生活の模範としたい聖人

聖人・福者の誰もが模範となる聖性をお持ちなのですが、私は自分の体験と近しいものをお持ちの聖人を選びたかった。心に強く模範と思うには、私の場合、改革をなし得るような偉大な聖人よりも、自分と同じ弱さを持っていて、それを信仰生活によって克服した聖人が良かったのです。

神父様には「皆そうです。誰もがキリストに出会う前は罪びとなのです」と教えて頂きました。

強烈な宣教を成し遂げた方、過酷な苦しみの末に殉教した方、偉大なる聖人は多いのですが、さて。

親近感を強く感じる聖人──リジューの聖テレーズと、マリア・マグダレナ

私が教会に通い始めから洗礼に至るまで、復活祭を三度越しています。

最初の一年目は、漠然とした憧れで洗礼名を考えていました。本名と違い、洗礼名は自分で自分が選びます。

幸福そうな華やかな名前が良いな。天使の素敵な名前を負ったり。キリスト者になるなら「マリア」を冠したい。そんなことを考えました。

そんな頃に心に残った聖女が。「マグダラのマリア」でした。

インターネットでの説明を読むと、マグダラのマリアは娼婦ともいわれ、悪霊により堕落した罪の女と呼ばれていました。私はこのマグダラのマリアの経歴に、とても引っかかるものを感じたのです。

教会に通い始めた頃、私はとある事情から強い罪悪感を持っていました。「罪の女」と聞くと、私の醜い汚れた本質を言い当てられたようで、苦しい気持ちになって病みません。この頃、私にとって「マグダラのマリア」は、私の闇そのもの。洗礼を受けて「マリア・マグダレナ」の御名を頂き、一生を自分の罪のいましめに費やす。そんなイメージしか持てませんでした。

そして、「マグダラのマリア」以外の名前を選ぶ事は、自分自身の本質から目を反らす行為だと思い続けました。素知らぬ顔をして、「ずっと暗いところのない人生を歩んで来ました」等と言うのは欺瞞であり、ゆるされない行為だと考えていたのです。

そう考えると「洗礼名」とは、私を一生自分の後ろ暗さに縛り付けておく、私の霊への烙印のように思われたのです。

私の教話を担って下さった神父様からは、面談でたびたびマグダラのマリアの引用がありました。他の聖女の話は出て来ません。

神父様も私の本質にマグダラのマリアを見抜いているのではないか、と、苦しい気持ちになりました。

しかしその後、神父様から聖人の在り方についてお話を伺います。

聖ペトロは、キリストを裏切った過去を隠さない。自分の罪を忘れず、忘れない事によって繰り返さない。そうして聖人になって行った。マグダラのマリアも同様。娼婦だった過去を忘れず、キリストと出会って回心したことを忘れない。罪はゆるされるものだが、罪びとは自分の罪を忘れてはいけない。

マグダラのマリア」を受け入れるために、一歩前進しました。

恐れず「マグダラのマリア」の名を頂こう、そう思うようになりました。

でも結局、やめちゃった。

リジューの聖テレーズに出会ったのです。初めて聖テレーズの事を知った時、「なんと幸福そうな聖人だろう」と印象しました。美しく、優しい笑みをいつもその顔にたたえています。きっと生まれながらに心清く、天にまっすぐ昇るように美しい事だけをして生き、列聖されたのだ、そう思いました。

私の夢は再び芽吹きました。幸福そうな人になりたい。後ろ暗い、醜さを忘れたい。「マグダラのマリア」になりたくない。

私は罪びとだけど、娼婦じゃない。やっていない罪まで自ら負って行くのは出来ない。もう潰れてしまう。

でも、聖テレーズも選べない。私とはかけ離れた生涯に違いない。そんなきらびやかな名前だけを頂いても、私の信仰は私を救うことはないだろう。深く悩みました。

そしてもう少し聖テレーズのことを調べます。

やがて、聖テレーズは地味な修道女だったと知ります。奇跡を起こしたり、神秘体験の数々があった訳ではない。毎日の生活を丁寧に生き、目立つ華々しい事よりも手の届く信仰を大切にした。私は聖テレーズをそう認識しました。

これも私に足りない。そう、かつてマグダラのマリアが誘惑された激しい「大罪」は、私にはおそらくあまり縁がない。そういった巨大なことよりも、私は毎日の生活を丁寧に送れるのか。いや、送れていない。では、この聖女こそ私の模範ではないだろうか。

マグダラのマリアと共に過去の劣等感に怯えるよりも、テレーズと共に目の前の日々に対して自分の弱さと戦いたい。テレーズはきっと共にいて、私を助けてくれるだろう。私の大事な友人になってくれるだろう。姉であり妹であり、最も親しい友人であり、先生に。

そんな人が欲しい。そんな人を私の霊の名前に授かりたい。

私は聖テレーズから名前を頂きました。

聖テレーズは人気のある聖人で、毎年洗礼式に一人はいるといわれているそうです。

日本ではその著書から「小さき花のテレジア」と異名を持ち、可愛らしいその名から、幼児洗礼でその名を授かる人も多いようです。実際に、少女と呼ばれる年齢を超え、二十歳を過ぎて「小さき花」は冠しづらい。聖人は決まっていても、その名前をどう頂くか。それは私の次の課題でした。

どんな字面に

リジューの聖テレーズは、いくつかの名前のバリエーションがあります。

どれが正解でもないのでしょうし、「テレジア」という洗礼名を頂いて、それを「リジューの聖テレーズ」からと考えて構わないようです。

私は「マリア」という名前にも憧れがありました。ラテン語の読み方が良いので、「マリア・テレジア」にしようかと考えたりもしました。

ただラテン語の「テレジア」は音が強い。フランス語の「テレーズ」は優しげで親しみやすい。「マリア・テレジア」というと、何よりもハプスブルグのオーストリア大公が連想されるので、あまりに恐縮な気持ちになります。

なんとなくこのあたり、日本人の名前観と感じます。本当の名前は知られたくない。

日頃はニックネームでしか呼ばない。

なので、私の洗礼名はちょっとゴツいかも知れません。でも、お名前を頂いた後は、もう聖テレーズ──テレーズといつも一緒にいるので、私も、テリーやトレイシーといった軽やかな気持ちで日頃を暮らしています。

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