読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

晴れときどき薔薇の雨

カトリック信者による信仰生活体験日記

聖堂を訪ねましょう

洗礼準備期間、私が教話担当の神父様からご教示頂いたことで、とてもありがたかったこと。

それは、「主日以外も教会の聖堂に通って、神様にお祈りする」。

この頃、神父様は「お祈りとは、神との対話」と仰っていました。私はまだこの「対話」がよくわかっていません。神父様も、ベテランの信者様も「神は答えて下さる」と仰います。でも、私には何も聞こえません。聞こえないけれど、聖堂で十字架にかけられたキリストの姿を眺め、心の中で話し掛けています。

私の祈りは、ほとんど一方的な神への語り掛け。私は、目を開き、上方の十字架あるいはキリストの像を見上げ、語り掛けています。多くのお祈りの姿は、目を閉じてされるもののようなので、このお祈りの仕方は正しくないかもしれません。

私は、対話とは見つめ合いだと認識していました。

だから、神を見上げ、見詰め、そして語り掛けます。今日はこんなことがありました。今日はこんな事で心を乱しています。今日は、感謝をお伝えしたくて参りました。そんなふうに、語り掛けています。

具体的な言葉としての返事がある訳ではないけど、神の前で自分の心を打ち明けると心が安らぎます。

それを求め、私は、聖堂に通うようになりました。

聖堂は、所属教会の聖堂でなくても構わないそうです。それがカトリック教会の聖堂であれば、どこでも。

そして、洗礼準備期間にも、この「聖堂での黙想」は思い出深い記憶となっています。

洗礼準備期間の頃、私は、諸般の事情により所属教会(入門は済ませていました)に通っていませんでした。

とある事情から、「私はそこに行ってはいけない」「行かないことが善行だ」という考えに囚われていたのです。教話担当の神父様は、勿論「教会は全ての人を招いています。招かれていない人はいない」「もし心に罪の意識があるなら猶更、あなたは教会に来なさい。教会は正しい人ではなく、罪びとを招くためにあるのです」と、頻りに私に行って下さいました。

でもその頃、私はその聖書の言葉に身を委ねることが出来なかったのです。

土日もミサに行く時間が取れず、聖堂が恋しかった。

神父様と共に主の祈りを祈りたかった。

心の底から聖なる場所に渇き、私は平日の会社帰り、日が暮れても聖堂が開いているカトリック教会を探して、通勤経路の途中下車を繰り返しました。

求め続け、やっと扉の空いている聖堂にたどり着いた時の嬉しさ。忘れられません。

「神よ! 神よ、やっとお会い出来ました。私は──私は──!」

聖堂の十字の前に辿り着いて、言葉にならない思いが溢れ出します。

言葉に出来なくても、神様は何もかも私のことを知っていらっしゃる。だから、上手く喋れなくてもいい。その安心感。ただその前に出れば、神は受け止めて下さる。私の苦しみも悲しみも、物思いも、愛も、罪も。

ロザリオを握り締め、祈るにしては思念の中にすら言葉もないままに、聖堂の椅子に座って身を委ね続けました。その幸福。そばに体温はなくて、少し寂しいけれど。その寂しさも喜びになる。神は見えない。神には触れない。肉の満たしは何一つない。けれど、それでも心は満たされる。肉は忘れらたようで少し寂しい。肉の感覚の方が強烈だから。不思議な孤独感。神はいるけどいない。肉においては。

肉においていないことを実感しながら、心は神を確信している。

これが、少し寂しい喜び。

けれどそんな時間が、私にはとても大切なものになった。