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晴れときどき薔薇の雨

カトリック信者による信仰生活体験日記

「神とは愛なのです」

本当は、私が教会に通うようになった経緯を時系列で記した方がわかりやすいと思いますが。

洗礼を受けて間もないので、ハイな状態が続いているのかも知れない。

記憶にはっきりとした実感が伴っている内に、色々と書きたい。

とはいえ、本文で軽く経緯に触れます。

表題の聖人は、福音記者ヨハネ。ご存じ「ヨハネ福音書」の一説の引用です。

○教会との出会い

私の教会通いは、知的好奇心が最初の動機でした。

西洋文化を背景とする小説を読めるようになりたかったのです。

近所のプロテスタント教会の前を通りかかった時、掲示板に「聖書講座」「入門講座」の文字がありました。何も知らない私は、それを「キリスト教や聖書を信者以外にも教えてくれる講座」だと思っていました。意味は近いですが、教会の「入門講座」と言えば「洗礼準備のための講座」と認識するのが一般的でしょう。

当時は、プロテスタントでもカトリックでもどちらでもよかった。違いなどわからないも同然であるし。

ただ、カトリックは中学の歴史教科書で「宗教の腐敗の例」として必ず出て来る。そして「腐敗の例」として扱われるにも関わらず、「厳格」と世間一般に印象を残しているのが不思議でもあった。

しかしながら、カトリックは「教皇を頂点としてツリー式の宗派」とすると、多数の分派を抱えるプロテスタントよりは体系的でわかりやすいようにも思った。私は最初に、最も通いやすい場所にある教会を訪ねた。

カトリック多摩教会です。

とても不思議な気分でした。いわゆる普通の人達が教会に集っていて、そして「神様」を信じている。

私に宗教的素養はなく、母校の教員を除けば信仰を持つ人々と会うのも初めての事でした。神父様が神の話をなさり、信者の方々が神を信じている。

「神なんていないよ」。

それが私の当時の認識でした。

「だって、願いを叶えてくれないじゃない。神様はいないよ」

そう「神様」とは「願いを叶えてくれる存在」。そういう認識。

そして「願いを叶えてくれる訳ではないけど、尊く素晴らしい存在」という「神」が、一体何のことなのか私はしばらくわからない。

普通の人達が、心から信じている「神様」。

神父様が、人生を捧げて信じている「神様」。

人をそれほど本気にさせる「神様」とは、一体何を指しているの。どんな存在なの。

神のことはよくわからないけど、当時の多摩教会の主任司祭晴佐久昌英神父は話し上手な方で、徹底して弱者に優しい、けれどいい人ぶらないその姿勢は心に残った。神父様のお話を聞くのは楽しい。でも「神はわからない」そう思っていた頃。

私は主日のミサに出るようになっていました。

それでもまだ神のことはわからない。

そしてある日、ミサの後、聖堂のエントランスに掲示されたポスターに気づきました。

教皇ヨハネ・パウロ二世の写真が配置され、ことばが書かれていました。

「神とは愛なのです」

私は雷に打たれたようでした。

そうだったのか、と。

愛のことだったのか。

神学的にはおそらく「愛」自体が神ではない。神は愛だけど、愛は神ではない。

愛は神の一部、と言えばいいのか。

神をどう説明したらいいか私はいまだにわからない。けれどこの聖句との出会いは、私の大きなヒントだった。「神が愛ならば」「神が存在するから、人と人は愛を持って関わり合える」「全ての不和と分裂と嫌悪を埋めるもの。それこそが愛」。人は愛があって──つまり、神の愛があって、初めて人として生きられる。

何故「愛のある状態」「平和の状態」が崇高であるのか。それは「その方が幸せになる人が多いから」としか私には言えません。でも、神の教える通りにした方が、そうしないよりも人間関係上手く行く、世の中上手く行くのです。何故かはわからない。わからないけど、神父様を通して語れる神の望むことを知れば、神の望む通りに生きる方が世の中は良くなり、美しくなり、平和に幸せに人々は生きていけそうなのです。

ちなみに、本当に不思議ですが、「自己犠牲」のイメージが強いキリスト教から私が学んだ最も大切なことは、「自分を大切にする」でした。自己主張していい。自分が何をしたくて、何をしたくない人か、自分の心に素直になっていい。無理して背伸びしなくていい。本当はイエス・キリストのようにわが身を御心に捧げるのが最高の行いだけど、でも、それができなくてもいいのです。出来ない事は残念ではあるけど、でも神はそれでもいいとお考えなのです。

ゆるして下さるのです。

ゆるされて、その喜びと幸福でわが身の罪の重さを知って、回心していけばいい。

罪に対して回心は必要。ゆるされるのは、自分の罪を知るから。

そうなんだけど、自分の罪を自覚し、心から悔い、行動を改めるように努める人を神はもうゆるして下さる。

そんな発想をしたことがなかった。

そして、その発想のない私の人生は、痛み切り疲れ切り、擦り切れて粉々に砕け、死んでしまう寸前だった。