晴れときどき薔薇の雨

カトリック信者による信仰生活体験日記

ふしぎな出来事 002

カトリック秘蹟の宗教。でも世の中の出来事の99%は科学的に説明ができる。残りの1%が秘蹟であり、神秘。何を神秘と感じるかは宗教的なセンス。宗教的センスを磨くことで、何が聖霊の働きかもわかるようになって来る」

確か、晴佐久神父の入門講座でそのように教わったように思います。

これもとても心にしっくり来ました。

「宗教的なセンス」とは、何が「善」かを見分ける感性と私は考えています。

「善」もまた複雑なものなので、これも研鑽を積まないと見誤るものですね。私は今でもまだまだ「善」と「善に見せかけたもの」の区別が危ういことがあります。

と、現実的な話をしておいて。なんですが。

私がカトリック多摩教会に通い始めて2か月。

私は早速、悪い縁と切れた。

私はそれを悪いものと思っていなかった。善いものなのに善くなりきれない気の毒なものだと思っていました。

だから、別れはつらかった。自分が悪いから縁が切れるのだとも思っていたし。

これまでの人生が転覆するような絶望の中、晴佐久神父に相談をお願いしました。

「善とは何なのですか」「私は悪を行いかけているのか、一体自分が何をしようとしているのかよくわからない」

晴佐久神父は時間を取って快く相談に乗って下さいました。

晴佐久神父の有り難いところは、相談内容を忘れて下さるところです。晴佐久神父は神のお言葉を代弁して下さるタイプの神父様。福音を語られるとき、ことばの主語は神父様ご自身ではなく「神」。私は、神に正しい道を示して頂き、背中を押してもらえる。人間である神父様の本体は、忘れて下さる。そこが本当にありがたい。私はこの世の何とも話してはいない。ただ神のことばを伺った。

私は、善だと思い込んでいたことをもうやめなくてはいけない。

アルコール依存症の患者は、病院にしか治せない。そばを離れることは、見捨てる事ではない。

しばらくこれでいいのか迷ったけれど。私自身も限界だった。家族でも身内でもない、まして私を何度も裏切り続けるその人に施しをするのはもうやめなくてはいけない。

私は自分の限界を告白した。無限でない、有限の私は無力で、罪びとだった。でも、この悔いる気持ちは、神がそんな私をも愛して下さっている事と繋がっていた。私は罪びとだけど、悔いる私を神はゆるして下さる。

「悔い改め」と「ゆるし」の事を私が理解できる形で教えて頂いたのは、別の機会の別の神父様だったけれど、この時の自分の気持ちはいま思うと「回心」と「ゆるし」ではないかと思う。

何が真の善で、何が善に見せかけた悪なのか、今でも判別は難しい。

どうすればそれがわかるようになるのか。私は探し出した。それが、結局は信仰への道だった。

偽善から救って頂いた。それは大きな恩なのだけど、私はそれが直接信仰生活に入ることに繋がらなかった。感謝で止まってしまった。これでいいのかと迷う事も多いけど、信仰生活を求めるようになったということは、それから更なる回心を与えて頂いたということなのだと思う。

私はずっと「恩」から脅迫されていた。「恩があるんだから、代償を払え」と、ずっとそう言われて来た。

それがこの世の掟だと。

でも、徳というのはそうではないはずだ。善行をした人は天の国に宝を積んだのだ。報いは神がして下さる。私たちは神を信じて善行をただ続けることが理想のはずだ。見返りをこの世に求めない。それがキリスト者のはず。なら、もう「恩」の脅迫から逃れたい。そして、神は、私を逃がして下さった。