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晴れときどき薔薇の雨

カトリック信者による信仰生活体験日記

モラハラ 001

カトリック全般

つい最近までその言葉さえ知らなかった。「モラハラ」。「モラル・ハラスメント」の略です。

いわゆる「精神的DV」とされますね。

このサイトの説明がわかりやすいと思いました。

こいぴた「モラハラ夫の特徴とその対策方法9つ」

http://za-sh.com/morahara-husband-4794.html

こういう人と関わり合う理由はなんでしょう。よく言われるのは「自己評価の低いから」。

自己評価が低いと、虐げられることを受け入れやすい。「私のような愚かな人間は虐げられて当たり前だ。愚かなんだから仕方ない」とか思う。あるいは、否定的なことを言われると、それが低い自己評価に対する対症療法だとか考えてしまうのだよね。自分の経験からするに、「お前は頭が悪い、人から尊敬されるところがない、価値がない。何故のうのうと生きているのか」といった酷い言動を「この人は本当の私をわかってる」と思ってみたり、「この人は私がこのダメな自分を脱却する方法を知っているのでは」と思ってみたり。

ほぼカルトワールドです。

多分モラハラと縁のない人には「そもそも何故そんなに自己評価が低いの?」と疑問に思われることでしょう。

私にも決定的な理由はわかりません。思い当たるのは、小学生くらいの頃から「自己犠牲」というものに異様に気が昂る性質だったこと。「身に覚えのない事まで自分の罪として背負う」とか。何によって培われた幻想なのか不明です。多分、聖書由来の自己犠牲精神をドラマチックに脚色した創作物を読んでそう思ったのでしょう。

子供のころから、辛い思いをする人が気の毒でならないところがありました。そんなの私が代わる。とか。

といっても、些細な事ばかりですけどもね。殴られそうな人の前に出て代わりに殴られて庇う、とかはありませんでした。そういう場面では、途端に人一倍の臆病者。

自分でも偽善的なやつだと自分のことを思ってましたし。嘘ばっか、勢いばっか。可哀想だと思いながら何もできないやつ、とか。

自分のことは嫌いだし、なのに「友達百人つくれ」とか学校は脅迫してくるし、仲良くなれない子はいらないよね、といつも思ってました。

で、私は今思ったわけです。

「自己評価が低い」とか「モラハラで泣かされてる」って、これ、信仰で回避すること出来ないかしら。

自己犠牲は、神への奉仕以外の何かの代償に行うことではない。信仰はそれを教えてくれると思う。

教会では「あなたはいかに罪深いか」と言われることが多いのが普通かも知れない。

でも、開き直ったり忘れたりということはあっても、自分のこと嫌いじゃない人ってあんまりいないんじゃないかしら。もう充分、自分の疚しさや偽善的な面、善になれない面、みっともなさ、弱さ、ずるさ、そういうものを実感して辛い気持ちになってるんじゃないかしら。

でも、「学校の成績が悪いのがなんですか」「稼ぎが悪いのがなんですか」「人から尊敬される仕事でないのがなんですか」と言って下さるのが神様なんでしょう。

愛がどんなものかわかったら、偽りの愛を振りかざして来る人のことも「あなたはおかしい」と考えて拒否できるかも知れない。私は終わった後の心の残りの後片付けとして「あの人とは離れて良かった。お互いに良かった」と思えたけど、関わりの真っただ中の人が、心を傷つけられ人生をめちゃくちゃにされるのを留めてくれるものになるかも知れない。

この話題、また乱雑な内容になってしまうのだけど、ひとまず今日はここまでで。

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