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晴れときどき薔薇の雨

カトリック信者による信仰生活体験日記

洗礼のススメ?

聖堂もミサも大好き。世俗から離れ、心の洗われるあのミサの感じがとても好き。

だから、ミサは人にお勧めしたい。とはいえ、相手がミサ参加が嫌だったり、反発を感じていたり、良く思っていない場合はそれ以上説得しようと思わない。

洗礼は……。

私は成人洗礼です。そして、洗礼は人生の中でもちょっと特殊な経験だと思う。特に日本では、それまでの文化圏をちょっと出て、新しい文化圏と交わるという「境界の向こう」を経験することになりますし。

洗礼までの経緯は、皆個々それぞれにあって、もし人の洗礼までの経緯を聞くことが出来たら、本当に多種多様であり「これが正しい」という正解がないと思う不思議な経験をするんじゃないでしょうか。「教会を訪問し、その年に最短距離で洗礼を受ける」が王道のようにも思えますが、その「最短距離」にすら個々人個別の展開がある。それだけ許容範囲が広いということだと思います。「道筋においてたった一つのこれ」を正解としない。

でも、自分の洗礼までの経緯を思い出すと泣いちゃう。

つらかったと思う。教会に出会って、洗礼を決心するまでが本当につらかった。

こんな思いをするかも知れないなら、誰にも同じつらさを味わってほしくない。だから、私は人に洗礼をすすめられない。「洗礼を授かりたい。その道行きで辛い事があってもいい」そういう決心を持つ人でなかったら、勧められない。

例え、そのつらさと一体の幸福があっても。私は確かに、頂いたつらさは幸福への導きだったと思う。つらさの中に祝福を感じた。何故こううまいこと、つらい思いが幸福に変わっていくのか、いつも不思議だった。

でも、それでも、こんな思いをするかも知れないなら、心配で心配で勧められない。

ちょっと不思議。

私は「宣教は信者の義務」というのを、結構早い段階で知ったのです。

「じゃあ信者になったら宣教しないと」とも思いました。でも、私にとって善いものでも、人にとって同じだろうか。そんな事も心配だった。それに、私も教会で多分人並みに嫌な思いもしているし。

こんな目に遭ったら、きっと教会が嫌になっちゃうよね、と思ったことも何度もあった。

それでも通い続けた私は、やっぱりちょっと変わってると思う。

根本的に、この宗教が好きなんだと思う。

他の人が同じとも思えない。だって、カトリックが好きな人って何があっても教会に通うし。どうしても行けなかったら泣いちゃうくらい教会を恋しく思うし。

それはやはり、この宗教と親和性の高いタイプの人だけのことなんじゃないかな、なんぞと、未熟な私は思ってしまうのです。

うん、ぶっちゃけるよ。教会、嫌なこと一杯あるよ。そして、世俗では体験できないような素晴らしい幸福も祝福も一杯あるよ。まだ片足突っ込んだばかりの私でさえそんな体験してます。

「嫌な思いするのになんで?」ときかれても、上手く答えられません。

とにかく教会に行きたいのです。

本当になんなんだろう。主日、世俗と聖別された聖堂とそこで行われる祭儀に触れるのが好きで好きで仕方ない。

まあでもこんなこと言っちゃ怒られるかもしれないけど。

私には神がいるけど、「神はいない」という人も尊重したいんです私。自分が自分の考えを尊重してもらえなくて嫌な思い一杯したから。考えは違っても、敬意を持って接したい。

カトリックはそれを旨とする宗派だったから。だから好きというところもあるし。

あと。カトリックには「受難の道」というイメージがすごく強くて。いやそうなんだろうけど。

洗礼を授かるときも、「戒めが欲しい」という気持ちが半分くらいあった。このままの自分ではダメだから、キリストから私の心が離れることがないように、私の心が隣人と他者への愛を失わないように、そんな思いへの戒めが欲しかった。

だけど、「あの人はああだからダメ」「こうだからダメ」って人にダメ出しして批判してる方が、生きるの楽だよ。同じ悪口仲間で連帯して、数で弱い存在を圧倒して黙らせて。これと戦うってつらいよ。相手は卑怯な手ばかり使ってくるのに、こっちはそれをしたくない。不利。でも、勝たないまでも負けないように生きる。

こんなの「やります!」と決心した人にしか勧められない。そして、確かにその道は素晴らしくて、負けずにいられた時の喜びは途轍もないんだがね。でもね、つらいよ。心折れそうになるよ。私自分の好きな人達がそんな思いしてたら泣いちゃうよ。やめてよ、そんな目に遭わせないで神様! って思っちゃうよ。

……うーん、これ、「ダメな母親」的思考なのかな。

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