晴れときどき薔薇の雨

カトリック信者による信仰生活体験日記

みんなで何かやる

子供の頃からずっと「皆でなにかやる」が苦手でした。

かなり内向的な性格だったので、仕切り屋の子と関わるのがすごく苦手で。仕切りが好きな子は、良かれと思って仕切るのだろうけど、子供だから下手な子を責めるようなこと言っちゃうこともあるのね。

例えば、家庭科の授業で皆で料理をしていて、私が自分の家のやり方でやってたら、違うやり方の家の子から「なんて非常識な!」と怒られたり。そして「出来ない子」扱いされちゃう。自分の家のやり方まで「非常識」なんて言われてとってもショック! もういや、あんな無神経な人達のいるところで一緒になにやるなんて、傷だらけのボロボロになっちゃう!

 

私はそんな言い返さない子供でした。

ただ私のような考え方の子供が言い返すと「うちではそれが常識なんだけど、あなたは私の両親を非常識だと断言するのですか。それはあなたの家の常識に過ぎないし、あなたの家の常識がスタンダードであり、それが他人を面と向かって非常識と決めつける根拠はあるのですか。まずは根拠を示しなさい。その上で、もし違っていたらきっちり謝ってもらう。ちなみに我が家が何故そのやり方をしているかの根拠も良心にヒアリングの上で示す。非常識さが、例えば我が家が貧困であるなどの事情であれば、あなたは私を公然と侮辱したことになるのでそれも謝ってもらう」という話になったと思います……。

 

気が小さくて言い返さないけど、頭の中は理屈っぽくて、責められると追い詰めるような攻撃で返す発想しかない子でした。

こんな言い返し方したら嫌われる、というのもなんとなくわかってたし。

 

いや話が遠回りしましたが……。

 

どう転んでも集団作業が苦手ということなのです。

 

「こんな私は一人で黙々と作業するのが合ってるよ」

そう考えて、一人で出来る事ばかりする子として成人して行きました。

 

さて、教会生活です。

 

そんな私が、今は集団作業が楽しい!

「教会に無神経な人はいない」ということはないと思います。教会にはいろんな人が招かれますから。

でも、優しくて強い人も一杯います。多くの信者さんが「一人一人の出来ることを、出来る範囲でやってもらえたら嬉しい」と考えていると思います。

野放図な子供時代のように、そして助けてくれる人もいない倫理観の失われた場所のように、「誰も助けてくれない」ということはないです。皆とは言えないけど、見ていてくれる人が誰かいる。何より神様が「大丈夫だよ」と言ってくれます。

 

また教会の奉仕を「神様のために」と思って行えば、失敗しても嫌なことがあっても「奉仕を通して行うお祈りは出来た」と思える。神様は見ていて下さいます。

 

気を楽にして、神様への奉仕と思って皆で行う奉仕活動に参加する。

椅子を運ぶのも神様のため、机を拭くのも神様のため。

そんな内に、掃除の仕方、料理の仕方、どうすれば他の人が助かるやり方でやれるか、ちょっとずつ教えてもらえるようになります。

 

そういう成功体験を少しずつ積んだら、次は、教会外の集団作業も好きになって来た。

慣れてくると、人からへたくそな手先を「だめねえ」なんて言われても「あはは、奥さんにはかないません〜」と流せたりする。そして「この人は自分の把握する環境の中で精一杯を生きていて、あまり外まで気が行かないんだな。でも、一生懸命生きてる人なんだろう」と思って、尊重の心を持てたりもします。

 

「私に無神経なことを言って嫌な気持ちにさせる人があまりいない環境」

「無神経なことをされても、優しくしてくれる人もいる環境」

優しさは、うんと優しいです。教会外で会ったほとんどの人より優しかった。

私は、教会で出会うことが出来ました。

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